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絶対に見逃せない【救世観音像 特別公開】4/11~5/18

【救世観音像 特別公開】

当館から徒歩30秒の所にある世界遺産 法隆寺。
近頃は気候も暖かくなり、少しずつ観光の方も増えて参りました。

ただ、法隆寺が本当に盛り上がるのはこれから。
4月11日から、東院伽藍のご本尊“救世観音立像”の特別公開が始まります。
年に二回ある特別公開は以下の通り。

春…4月11日~5月18日
秋…10月22日~11月22日
春と秋にそれぞれ一か月、年二か月ほどの公開ですね。

ただし、それは現代の話。
明治時代までこの像は絶対秘仏とされ、布で包まれ、一切人の目に晒されなかったとされています。

ではなぜ公開されるようになったのか。
そもそもなぜ絶対秘仏だったのか。
本日は法隆寺で最も有名で、最も謎多き救世観音のお話をさせて頂こうと思います。

正確な年代は分かりませんが、救世観音が造られたのは飛鳥前期。
聖徳太子の等身とも伝わる像で、どことなくモデルがいそうな不思議な顔つきが特徴的です。
平安以降は太子信仰の象徴とされ、元々造立当初から半分秘仏のような扱いだったとも言われています。

しかしそれは、あくまで“半分”秘仏。
いつしかこの像は寺のトップですら拝むことが許されない“完全”秘仏となったのです。

そのきっかけは鎌倉初期の1227年。
法要行事の一つ“勝鬘会(しょうまんえ)”の本尊として、本像の模造を造ろうとした時です。

「承知致しました。頑張ります!」
仕事を受注した仏師は、せっせと模像造りに励みます。
しかしその最中、なぜか彼が原因不明の突然死。

「もしやこれは…。」
祟りを恐れた僧侶たちは像を白い布でぐるぐる巻きにし、厨子に安置することにしました。
当然特別公開などありません。
ただひたすら、見ることを許されない完全秘仏。
その状況は約650年続きました。

封印が説かれたのは明治時代。
アメリカ人の美術研究家フェノロサと、助手岡倉天心が法隆寺を訪れた時です。

「ズシヲアケマショウヨ。」
フェノロサは僧侶に迫ります。
もちろんそれは興味本位ではなく、立派な調査。
フェノロサ一行は明治政府の依頼により、国内に散らばる宝物リストを作成していたわけですね。

「開けてはなりません。祟りが起こります。」

「ソンナコトイワズニ…。」

フェノロサはあらゆる議論を展開し、政府の許可状を押し付けながら僧侶を論破。
後日開帳する際、僧侶たちは祟りを恐れ全員自坊で籠っていたと言われています。

厨子に入り、何重にも巻かれた白い布を剥がしていくフェノロサ。
中には飛鳥時代とは思えない、黄金に輝く救世観音像が居られました。

「この像はモナリザに並ぶ世界の美術品だ!」
その時の感想を、フェノロサは後に書でそう評しています。

ただ彼が残した書には、一部不可解な記述もあります。
それが「本像は200年に亘り、一度も開帳されることはなかった。」
という記述。

フェノロサがこの像を見た200年前は、江戸時代初期。
しかし法隆寺に残る記録では、少なくとも鎌倉時代から秘仏だったはず。
時代が合いません。

実は完全秘仏じゃなかった?
じゃあ古文書の記録は嘘?
まだまだ謎が残るミステリアスな観音様。
是非この機会にご拝観頂ければと思います。

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